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丹後探検隊が魅力あふれる丹後の自然にご案内いたします。

 丹後の羽衣天女は神となった!
 

羽衣伝説発祥の地

 丹後には日本最古とされる神話が二つもあります。一つは羽衣伝説、一つは浦島太郎伝説です。
今回はその内の一つ、羽衣伝説について掘り下げてみましょう。なにしろ数千年もの昔の話ですからそのストーリーが真実なのか実在した人物なのかを議論しても、証拠物件が乏しく推測の域を出ませんが、発祥の地は何処?という話になると、日本で羽衣伝説の元となったと思われる伝承が、「丹後風土記」などの古書に文字として残されているので、丹後の磯砂山(比治の山)を発祥の地とするのはおかしな話ではありません。しかし、このような羽衣により天から降りて来た天女の話は、世界各地にも同じような伝承が多くあるので、まだ日本に文字も無い弥生時代に稲作や鉄器技術などと共に渡来人によりもたらされたと考えるのが妥当だと思われます。または、その渡来人たちの生涯が伝説のルーツになったのかも知れません。丹後はそうした大陸からの渡来人がやって来た痕跡が数多く残る土地でもあります。

磯砂山山頂

 丹後に伝わる羽衣伝説のストーリーは、天に帰る話と、死して祀られ神になる話しの二つありますが、まず神になる話しを紹介します。

 丹後に伝わる羽衣伝説
丹後国比治の山(磯砂山)の山頂に井あり、その名を眞井(女池)という。
この井に天女八人降りて来て水を浴みき。麓の和奈佐という老夫、天女の
衣をかくし、児として無理に連れ帰る。
天女万病に効く天酒をよくす。十有余年するうち、老夫の家富み栄ゆるも、
老夫は「汝はもともと、わが児にあらず」と家より追う。
天女は泣く泣く放浪し、竹野の郡舟木の里にたどりて死す。
里人天女を奈具社にて祀る。こは豊宇賀能売の命(豊受大御神)なり
と伝わり「丹後国風土記」に記された極めて格調の高いものです。

女池(真奈井)


 弥栄町舟木の奈具神社
 家を出された天女は村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具村やってきました。そしてこの村を安住の地としその生涯を終えたのです。村人はそれを哀れみ奈具神社に「豊宇賀能売の命」として祀りました。奈具神社の「なぐ」は路頭に迷った天女が舟木の里に辿り着き、この地に来て「なぐしく成りぬ(心が安らかになりました)と言ったことから来ています。

奈具神社

 羽衣天女が祀られている「奈具神社」は弥栄町舟木にありますが、元あった奈具村(舟木の里)は1441〜1443年の大洪水で消失しており、現在の奈具神社は後の明治になってから建てられた物です。消失後は溝谷神社の相殿で祀られていたともされ、明治6年に式内号と霊石を当社に移し建てられた物です。一方、消失時に移転したものかどうかは分かりませんが、「豊宇賀能売の命」を祭神とする神社は丹後各地にあり、よく知られている神社では、宮津市由良の「奈具神社」や宮津市江尻の眞名井神社があります。

 宮津市由良の奈具神社(丹後加佐郡十一座の一社、豊宇賀能売命を祭神とする)
奈具神社

 羽衣天女が死して神となった伝承には、天女が子供を授かったという話しはありませんが、もう一つの伝説の、天に帰ったと伝わる伝承には子供がいた話しが伝わり、磯砂山(比治の山)の麓には天女の子が祀られる「乙女神社」があります。

乙女神社

 天女が天に帰ったされる話しの内容は以下です。
昔、丹後の国の比治の里に三右衛門という若い狩人が住んでいました。あるひ三右衛門は磯砂山へ狩りに出かけると、何処からともなく良い香りと音楽が聞こえてきました。近寄って行くと、見たこともない美しい八人の天女が池で水浴びをしていました。羽衣伝説ふと傍らを見ると美しい羽衣が掛けてあるではないですか、三右衛門はその羽衣の美しさにひかれ、
一枚かかえると、いちもくさんに家へ帰り大黒柱の穴に隠しました。池からあがった天女は羽衣が無くなっているのに気づき三右衛門を訪ねました。そして返してほしいと頼みましたがいくら頼んでもだめでした。やがて天女は三右衛門の嫁になり三人の娘も出来ました。天女は美しいだけでなく、機織りや米作り・酒造りなど何でもよく知っていました。そして天女のおかげで比冶の里は豊かになり、人々はとても幸せに暮らせるようになりました。ところがある日、天女は羽衣の隠し場所を知り、羽衣を身に着けると大空へ舞い上がってゆきました ・ ・ ・。
話しはまだ続きますが、この後は「ジャックと豆の木」と「七夕伝説」を合わせた様な伝承になります。

 丹後に伝わる羽衣伝説の二つのストーリーは、いずれも一般的に知られている内容とは大きく違いますが、小学校で教わった昔話は、明治に入り道徳教育などを考慮して教科書向きにストーリーを変えて親しみやすく編集したもので、場所もストーリーも作り変えられています。こういった事を考えると、大昔の伝承も、その時代に合わせて話しの内容を変えながら云い伝えられて来たことが想像できます。


伊勢神宮外宮に祀られる豊受大御神は羽衣天女だった

 伊勢神宮は日本の神社の中心に位置する神社で、主祭神の「天照大御神」は八百万もの神々の最上位とされ、太陽にも例えられる神様です。

 伊勢神宮内宮 祭神(天照大神)
伊勢神宮内宮

その天照大御神が自分一人では食事が安らかに出来ないとの事で、丹後の国から食を司る神様「豊受大御神」を呼び寄せ祀らせたのが伊勢神宮外宮です。

 伊勢神宮外宮 祭神(豊受大神)
伊勢神宮外宮

 外宮の豊受大神は、内宮の天照大御神の食事を司る神様として、今から約1,500年前に丹後の地から迎えられこの地に鎮座されました。以後、天照大御神をはじめとする神々にお食事を捧げる儀式「日別朝夕大御饌祭」が一日も欠かさず行われています。

 外宮の社伝「止由気宮儀式帳」では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とゆけおおかみ)を近くに呼びなさいと言われたので、外宮に祀る様になったとされている。

 豊受大神
「豊受大神」は日本神話に登場するトヨウケビメのことで、祖神イザナミの尿から生まれた神ワクムスヒの子として降臨した神です。
「古事記」では豊宇気毘売神と表記されますが、別称、豊宇賀能売神、等由気大神、豊受気媛神、登由宇気神、豊岡姫などと同一神です。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神とされています。

 古代の丹波国
 現在の丹後、但馬、丹波を合わせた広い地域を支配した国で、海に近い現在の丹後地方には大陸とつながりのあったと思われる言い伝えや、巨大古墳が数多く残り、日本で最古の製鉄所遺跡が確認されるなど、当時としてはかなり先進的で強大な国だったことが想像できます。
 奈良時代に現在の丹後、但馬、丹波に分国され、明治になり都道府県に行政区が分けられ、但馬の殆どは兵庫県となりましたが、現在でもこの地域を三丹地方と呼び社会的なつながりの名残があります。


 元伊勢 籠神社の奥宮「眞名井神社」
眞名井神社

 古代丹波国には比治の眞名井とされる場所や、豊受大神を祀る神社が多くありますが、宮津市江尻に鎮座する眞井神社もそのうちの一つで古い歴史を持ちます。
 眞名井神社は元伊勢籠神社の奥宮で吉佐宮とも呼ばれ、遥か縄文時代から受け継がれて来たとされる磐座があり、主座には産業、衣食住の神様(豊受大神)トヨウケオオカミが祀られています。相殿には、ミヅハノメノミコト、ヒコホホデミノミコト、カミヨイツツヨノカミが、磐座西座には、アマテラスオオカミ、イザナギノオオカミ、イザナミノオオカミが祀られています。

 磐座(いわくら)
 古神道における岩に対する信仰のこと。縄文時代から行われる自然崇拝の一種で、巨木や大きな岩、山や森、川や島には神が籠ると思われ、神事においてはその磐座から神を降臨させ祭祀が行われたと考えられます。


 元伊勢
古代、皇祖神の天照大御神は皇居内に祀られていました。しかしその状態を畏怖した天皇がその神霊を豊鋤入姫命に託したことに始まり、理想的な鎮座地を求めて各地を転々とします。そして最終的に現在の伊勢神宮内宮に鎮座されるのですが、その途中に留まり祀られた神社に元伊勢という名前を付けています。その内の一社に元伊勢 籠神社があります。

 元伊勢 籠神社
元伊勢籠神社

 元伊勢籠神社は「丹後一の宮」と呼ばれ丹後で最も格式の高い神社です。高欄に飾られた五色の座玉は、伊勢神宮と籠神社でしか見られないもので、本殿の建築様式も伊勢神宮と同じ「唯一神明造り」となっています。

 主祭神を彦火明命(ヒコホアカリノミコト)とし、相殿には豊受大神、天照大神、海神、天水分神が祀られています。
奥宮の吉佐宮(よさみや)「眞名井神社」に祀られた天照大神と豊受大神が伊勢に移られた後、籠宮(このみや)「籠神社」として現在の場所に移されたとされます。奥宮の吉佐(よさ)という呼び名は現在も与謝郡(よさぐん)や与謝の海(よさのうみ)となって継承されています。

 主祭神の彦火明命は天照大神の孫にあたる神とされ、籠神社の海の奥宮でもある冠島に降臨されたといわれています。籠神社(このじんじゃ)の名前の由来は、彦火明命が竹で編んだ籠船に乗り、海神の宮へ行かれたとする故事によるものです。
籠神社絵馬 この籠(コノ)という不思議な名前が付けられた疑問がミステリーとなって語られる事例として、「コノ」は古代ハワイ語の「大きな舟」という言葉に由来するのではないかと云う説や、日本書紀では速く走る舟の事を「枯野」や「軽野」と記され、アラワク語の「カノー」や英語の「カヌー」とも通じる「舟」を意味する言葉から漢字に当てはめたものではないかと推測する人もいます。
一方、籠は竹で編んだ入れ物の意味で、日本の神社でよく使われている紋章に「六芒星」または「籠目紋」があります。この図形は世界的に有名なイスラエルの国旗に描かれている「ダビデの星」と同じです。実はこの紋章が籠神社の奥宮の眞名井神社の社紋として描かれていた事実もあったのです。そして今でも六芒星は籠神社の裏社紋として絵馬に描かれる事もあります。

眞名井神社のミステリー
 近年、奥宮の眞名井神社で掘り起こされた遺跡を復元された当時の石板には、右写真の様に「六芒星」が描かれていましたが、ダビデの星とあまりにも似ているとの風評が酷く、現在は籠神社で使われる「三つ巴」の紋に変更されています。


 籠神社の宮司、海部氏は神の子孫?
海部一族


 籠神社の神職は海部氏(あまべうじ)の一族が担っています。一族には現在日本最古の系図「海部氏系図」(国宝に指定)が残されており、彦火明命を始祖として83代現宮司までの名が伝えられています。
 海部氏一族は海人族を総括した半造氏族で、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を置いた一族とされます。同族は天火明命を祖とする「尾張氏」との関連性が強く、丹後地方の祭事に伴う神楽などの芸能では尾張(名古屋)の流れを汲むものが多い、また、丹後地方の方言は名古屋の方言と非常に似通っており、古来より深いつながりがあった事をうかがわせます。


神ぞ知る、丹後は古来より食べ物の美味しい処だった

 丹後は海の幸、山の幸、そして稲作やお酒造りも古くから伝わり、食文化の非常に豊かな土地です。それもそのはず、古代に「天照大御神」が美味しい物が食べたいと丹後の神様「豊受大神」を呼び寄せたのですから!

 山の幸、海の幸を糧にした縄文時代は自然を神と崇めましたが、稲作が始まった弥生時代に入ると、祈りの対象も豊作を願ったり、耕作の知識を持った人を敬ったり、神とする対象も変化してきます。米作り、酒造りなどの知識を伝えたとされる羽衣天女はまさに神と崇められる対象だったのかもしれません。

 丹後に伝わる稲作の神話
 丹後の羽衣天女発祥の地「磯砂山」の麓、峰山町二箇には稲作発祥の地とする伝承も残されています。
月の輪田食物の女神とされる豊受大神が天照大神のために稲作をしたとされる「月の輪田」の伝承がそれです。月の輪の名は、三日月形の田であることに由来しますが、残念ながら現在の場所は近年耕地整備で若干場所を変えているので、古来の伝承地と同位置ではありません。
 「月の輪田」の近くには豊受大神を祭神とする「比沼麻奈為神社」があります。
比沼麻奈為神社
同社の読み比沼麻奈為(ひぬまない)は伊勢神宮外宮に伝わる、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる(とゆけおおかみ)を呼びないという伝承にほぼ一致します。文字は言葉を記録するために後から伝わって来た漢字を当てはめたもので、古書では漢字の当てはめ方が違う事は珍しくありません。


 丹後の羽衣伝説、如何でしたか? はるか遠い昔に思いをはせながら伝説の地を散策すると、また違った景色が見えてきますよ。


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丹後の特産品〜名産品


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伊根満開 一夜干し サザエ

竹中製缶 煮干し うご

間人ガニ 久美浜メロン 豆っこ米

飯尾の富士酢 琴引きの塩 丹後ばら寿司







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丹後探検隊 天照
  その昔、丹後には女神イザナミと男神イザナギがおり、地上と天への上り下りに長いはしごを使っていました。ある日イザナギが昼寝をしている間に倒れて、それが天橋立になったという神話が残っています。
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